徳善寺だより 第8号 平成16年 7月

久しぶりのおたよりになりました。梅雨明け宣言もなく、猛暑が続いておりますが、皆様におかれましてはお変わりございませんか。

早いもので今年もお盆の時期が近づいてまいりました。私は10年前ぐらいから、親戚のお寺のお手伝いで、お盆参りをしていました。そのころはまだ学生で、お手伝いといってもやはりアルバイト感覚。一日20件から30件近くを朝7時から夜は8時ぐらいまで足のしびれを抑えながら無我夢中でお経を読み続けていました。与えられた件数をひたすらクリアしていく。しかし一年、一年、年を重ねることに、なぜ私たちはお仏壇の前に座ってお経を唱えるのだろうと疑問を感じ始めるのです。これが私と阿弥陀様とのはじめての出遇いだと思っております。

私が卒業しました大谷大学の学長をしておられました、広瀬 杲(たかし)先生のお言葉で「人間は生涯にたった一人、どうしても出遇わなくてはならないひとがいる。それは自分自身である」という言葉をいつも思い出します。阿弥陀様は私という人間を教えてくださる唯一の『ほとけさま』なのです。

合掌

○ お礼とお知らせ

去る3月14日、当寺本堂で行われました「永代経法要」には、多数のご門徒さまが参拝されました。有り難う御座いました。御礼申しあげます。(総代一同)

お盆のお参りを8月8日~15日を中心でお参りしたいと思っております。できる限り希望日にお参りしたいのですが、地域ごとで固まってお参りしたいと思っております。希望日がある方はできるだけ早めにご連絡いただければと思っております。寺坊 078-732-0531 住職携帯 090-5053-8972 (住職) ○ 兵庫教区仏教壮年連盟第 30 回記念・阪神神戸大会に参加して

5月23日、仏教壮年連盟の大会が、「念仏の声を子や孫に」、「御同朊の社会を目指して」をテーマに須磨ノ浦女子高等学校で開催されました。

壮年連盟会員 660名が参加し盛大な記念大会となりました。

なお、会場の須磨ノ浦女子高等学校は大正12年創立された浄土真宗本願寺派の宗門学校で、海浜公園から国道2号線を超えて北に入った処にあり、JRからも良くみえます。 (総代 尾川 一)

○ 一口メモ

仏事にはいろいろのしきたりや、迷信と思われるものがあります。総代会の研修でも勉強の対象となります。そこで身近なものについて考えてみたいと思います。今回は「友引」について考えます。

「友引の日には葬儀を行わない」という風潮はかなり広まっているようで、友引にあたれば、その翌日に延ばす方が多いようです。なぜ避けるのかと言えば、友引は「友を引く」と書き、「その日に葬儀をすると死者がこの世(友)を引っぱりさらに死人が出る」というのだそうです。仏教的には何の因果関係もありません。「友引」というのは、日の吉凶を占う「六曜」の一つなのですが、本来は「友引」ではなく「共引」で、意味も「共に引き合って勝負なし」すなわち「良くも悪くもない」ということなのです。従って気にする必要はなにもありません。

「皆が嫌がっていることを無理にしなくても・・・・」と思われるかもしれませんが、一度考えてみてもよいのではないでしょうか。

(出典:「仏事のイロハ」末本弘然著 本願寺出版社発行)

○ 一語法話

生きているという事は決して私の力ではないのだ「 高松 信栄 」

私たちは、何かに付けて「私の」「俺の」という言葉を頭にくっつけてものを言い、我欲にとらわれた在り方をしています。お金、財産、地位、名誉を求め、妻や夫、子供などに対しても、自分の思いに沿うようにと常に欲しています。同様にして、自分のことにつけても、「私の身体」「私のいのち」であると考えて、「願われてあるいのちの私」であることになかなか気づけないでいます。

高松信栄先生は「どんな時でも、私の胸には鼓動が脈打っている。私が忘れていても身体は規則正しく呼吸していることを考えれば、生きている、という事は決して、私の力ではない、ということがわかるではないか」と私たちに問いかけてくださいます。また「親鸞さまは、無理なくその認めたくない現実を引き受けていく道をあきらかにされているのである。ただ南無阿弥陀仏ととなえよと。腹がたつ、悲しい、困った、面子がたたぬ、念仏してそれを何とかするのではない。何とかならぬままに、ただ念仏して行くのである」ともおっしゃっています。

己を立て、「我」を先行させることなく、つねに「願われてあるいのちの私」であることに気づきたいものです。

事務局 神戸市須磨区寺田町2丁目1-2 徳善寺 内 TEL 078-732-0531

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