徳善寺だより 第9号 平成16年 10月

例年に無い猛暑が続いた夏も終わり、過ごしやすい秋がやってまいりました。今年は台風の上陸が多く、いろいろな各地で災害が及んでおります。ご門徒の皆様におかれましては、おかわりございませんか。

いろいろなところにお参りしておりますと、ちらほらと桜が咲いているのを目にします。今年は台風の塩害で草木が枯れてしまい、紅葉もあまり期待できないのが残念で仕方ありません。その反面、春の代名詞である桜がこの秋に見ることができました。自然という大きな力の前では、植物も動物も人間も逆らうことができないのです。しかし桜はなりゆきのまま花を咲かした。我々が見習うことがここにあるのではないのでしょうか。私たちの「我」というものが、自然の流れをくい止めてしまうことがあります。あまりにも自我を過信し過ぎているため。桜のように力を抜いて自然に身を任せることも大事なのではないでしょうか。このことを親鸞聖人は《自然法爾(しぜんほうに)》とおっしゃっております。阿弥陀様(しぜん)に我が身を委ねるという意味です。台風という自然の力が我々におしえてくださってるメッセージなのかもしれません。

合掌

○ 行事予定

11月13日(土)2時より徳善寺本堂におきまして報恩講法要を厳修したいと思います。皆様のお参りお待ちしております。

報恩講法要

11月13日(土) 2時より 読経・焼香・法話

また10月31日(日)神戸ウイングスタジアムにおきまして兵庫教区「御同朋総結集1万人大会」を12時から開催します。徳善寺からは10名ほど参加させていただきます。また後に報告させていただきます。

○ 一口メモ

「お仏壇」に〝他人が入ると先祖が気を悪くする〟というのは、結論から言えばご先祖が気を悪くすることはありませんし、他家のご先祖を偲ぶのも一向に差し支えありません。「先祖を偲ぶ」ということは、我と他との間に垣根をつくるのではなく、身近な縁ある方を通して、はかない命に支えられている〝私〟に気づき感謝することでしょう。

家に仏壇が一つでもよいということにもなりますし、過去帖があれば〝我が家の先祖〟とともにそうした縁のある方々の法名等を記されてもいっこうに構いません。 (続柄、関係などは書いておきましょう)

(出典:「仏事のイロハ」末本弘然著 本願寺出版社発行)

○ 一語法話

かげがいのない自分の人生をそのまま受け取れない自分がいる

人はこの世に生まれた限りは、必ず死を迎えます。誰一人として死を避けることはできません。誰かの寿命の一部分をもらったり、自分の寿命を分け与えることもできません。また、この人生はやり直しはできない、一度きりのものです。しかも死はいつ突然やってくるかもしれないのです。

人生に代理人はありません。『仏説無量寿経』には、人間は本来孤独であり、誰一人として代わってもらうことのできないありさまを「身みずからこれに当る。たれも代わるものなし」と表現しています。

しかし、私自身そうした人生の無常性を感じながらも、どこかで自分だけは特別であり、例外であると思っています。いつも死を日常から遠ざけて、生に執着し続けています。代わってもらうことができない人生であるにもかかわらず、欲求ばかりが先行し、自分自身をそのままを引き受けることができずにいます。まさに「わかったつもり」でいることの無明性から抜け出せない私がいるのです。

『癌告知のあとで』の著者である鈴木章子(あやこ)さんは、「念仏は/私に/ただ今の身を/納得して/いただいてゆく力を/与えてくださる」と本願のおはたらきを領解されました。

私が「いつ死んでもよい」と覚悟をきめるものでもなく、思案をつけるのでもなく、かけがえのない人生にたいするまことの目覚めを持たない、あくまでそのような私のためにこそ思案をつけてくださった仏さまのお手回しにうなずき、ただおまかせしていくほかないと気づかされます。

仏智をいただき、無明なる自己を知り、かけがえのない今日を精一杯生きたいものです。

事務局 神戸市須磨区寺田町2丁目1-2 徳善寺 内 TEL 078-732-0531

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